プロフィールに興味を持っていただき
ありがとうございます。
貧乏性でケチだけど大切なものにはお金をかけるミニマパッカー
のビーチサンダル吉永と申します
あ、お前のことリアルで知ってるぞ!って方、言われると緊張して書きたいこと書けなくなるので心にとどめておいてください(笑)
最近は汚部屋ミニマリストなんて名乗ってみたりもしてます
ここでは、こんな感じで紹介したいと思います
- 大まかなブログや私について(ミニマパッカー/ビーチサンダル/汚ミニマリスト/とは)
- 他の運営ブログ
- 私の好きなことについて
- 人生観
- 私の歴史(楽に生きる方法を見つけるまで)
- お金の話
ミニマパッカーとは
私が作った造語です。
ミニマリスト×逃げ出しバックパッカーです
「こうあるべき!」や「普通はこういうルール」というたくさんの常識に縛られているとプレッシャーになり逃げだしたくなるので、常識は捨てていって
その時その時の自分の大切なものだけ大切にするミニマリストです
物だけでなく心の在り方こそをミニマムにしたいミニマリスト
「質の良い丁寧なシンプルな暮らし」より
「楽に生きる事」だけを考えてる
そして嫌なものからは堂々と逃げ出す
そんな特徴があります
ミニマパッカーなキャラ
イメージしてもらうのに一番いいのは小説「キノの旅」のキノです
キノは、生きるために生きています
自分の物語の中心にいながら、
世界を客観的に見れる、傍観者のように。
自分が生きるためには躊躇なく人も動物も殺します
「良い行い」だって最低限。
でも殺すのも必要最低限、
荷物も、優しさも、思いやりも最低限。
冷徹さも、言葉も必要最低限。
その時その時の必要最低限のものだけをバイクにくくりつけて旅しています。
髪だってボサボサ
生きるために髪をとかす必要なんてないんです
そしてやはりケチ
自分のために生きています
私の憧れです
無料で少し読めるのでぜひ読んでみてください
子供っぽい表紙ですが、大人こそ、楽しめます
名前の由来:ビーチサンダルとは
ビーチサンダルで生活できるくらい気楽に生きていきたいな~って言う意味からプロフィールは100均のビーサンです
このサンダルは人生が変わったアメリカ逃亡旅行に行くときに、母が買ってくれました。
私はビーサンを持っていなくて、ちょっとしたバンドのあるサンダルと靴しか用意できませんでした。
スリッパとか持たないの?
と母に聞かれて、その時ニートだった私は100円でも買う(買ってもらう)ことに罪悪感があり、「サンダルがあるから大丈夫」と答えました
そんな私の気持ちを知ってかしらずか、母が急に買ってきてくれてこう言いました
「ビーチサンダルはあると便利。こんな薄っぺらくてかさばらないし、いらなかったら捨てて来ちゃえばいいから」
と持たせてくれました。
私は旅行に慣れていなかったのですが、こういう簡単にはけるサンダルが、あるのとないのでは雲泥の差でした
というか、ビーサンしか履きませんでした(笑)
その時のことを思い返して、改めて考えたら、大袈裟に聞こえるかもしれないけど、ビーチサンダルの大切さ?というか凄さに気がつきました。
こんな簡単でシンプルで誰の目にも特別に映らないようなものに、こんなにもなにかを変える力(快適度満足度など)があることに驚いたんです。
だから、ビーチサンダルはわたしにとって特別な履物です
捨ててもいいし、捨てなくてもいい。いつでも捨てられる。なんだか自分の命みたいです
そしてその後の、生きる意味を知ることになる東南アジアにも持っていき、その後もずーと履いて、壊れて捨てました(笑)
捨てる時は同じものが見つかると思ったんだけどこんなに薄っぺらいものがなくて、かと言って履き潰せるまで丈夫なビーサンにはその後、出会えていません。
とても思い出深いビーチサンダルとなりました。
汚部屋ミニマリストとは?
言葉の通り、部屋が汚いミニマリストです
よく、ミニマリストやめましたとかネットで見ますが、ミニマリストってやめるものじゃないと思うし、
ミニマリストの定義とか考えだすとめんどくさいのでこのままわかりやすいし名乗っていきます
でもですね、ミニマリストって別に部屋がきれいじゃなくてもミニマリストなんですよ?ってことが言いたくてこんな名前を考えました
うちは、部屋が汚いのですが、いろいろな理由があります
実家が汚部屋で、そこに半同居していたり、捨てられない母と、買い物好きな夫に囲まれていたり、子供がいたり。
この全ての要因があっても綺麗な家に住んでるセンスある人はたくさんいますが、
単純に片付けしてるからきれいなわけであって、片づけなくてもいい生活のためにミニマリストになったので、
そうじゃなくて、きれいを維持するより、諦めちゃった方が楽で、そういう生き方もあるよという意味がこもってます
だけど同じあきらめる、にしても、ミニマリストな私だからこそ、できている生活や楽な生き方があるので、汚部屋ミニマリストとしてやっていきたいなという感じです
詳しくはこちら≫今よりもっと楽して生きたい!汚部屋ミニマリストという人生の始め方
管理人:ビーチサンダル吉永の事
始めて会った人は大丈夫だが、二回目から唐突に逃げ出したくなるタイプのコミュ症
出来てない事を突かれると図星で逆ギレする
30代の専業主婦と見せかけて
こっそりブログでお金稼いで、へそくり作ってます
夫の手取りは16万で、一家の生活しています
転職して20万前半になりました!
隠れ健康オタクで、めんどくさがりなのに神経質
超ドケチ/めんどくさがり/元完璧主義/元うつ病/高卒/職歴なし
【正装】Tシャツ・Gパン・ビーチサンダル
【好きな言葉】なるようになる/明日出来ることは明日やる
【座右の銘】どの道を選ぶかではなく選んだ道でどう生きるか
【好きなもの】ブログを書くこと/小説/ゲーム/声優/漫画/アニメ/劇団四季
【家族】夫、子供2人の4人家族。実親と半同居。夫は過去の私のように完璧主義というか杓子定規であたまカチカチ
ビーチサンダル吉永の運営ブログ
↑こんなアイコンで書いてるブログもあります。今思うとちょっと背伸びしてますね…
▼子供の食事と日々の料理がつらすぎて別ブログ立ち上げちゃいました
▼足の踏み場もない実家を大掃除した様子を記録しました
実家断捨離ブログ・捨てられない母とミニマリスト娘の攻防戦マリスト娘の攻防戦
▼今はもうあまりやっていないロードバイクやアウトドアの話題
ゲームが好き
そこそこ語れる→ダーククロニクル/テイルズオブシリーズ/FFシリーズ/FF14で廃人に片足突っ込む/キングダムハーツ/モンスターハンター
好きだけど語れない→グランツーリスモ/ニードフォースピード/コールオブデューティー
ゲームを始めたきっかけは引きこもって毎日布団から出られない私に、「少しでも興味が出ることを」と試行錯誤してくれたのがきっかけ
その時やったキングダムハーツというゲームの敵が、
倒れると「バーンっ」と破裂してアイテムをまき散らし、それをシュイーン!!と主人公に吸収され周りが一気にきれいになる瞬間が
すっごく気持ちよくてストレス発散になった
そこからゲームは今でも大切なストレス発散法です
うつ病が回復しつつ始めたモンスターハンターというゲームやFF14オンラインで他の人と協力するゲームでは、忘れていた部活動や達成感を、再び感じられ
依存症かってくらいやりました
しかし燃え尽き症候群で引退
テイルズオブヴェスペリアのユーリには本気で恋しました
好きな漫画とアニメ
吉永の半分は大長編(映画)ドラえもんでできています。
うつ病になる前は、静止画を見ればどの映画のどのシーンでどんな台詞か、当てられたのが唯一の自慢でした
物心ついたときにはすでにドラえもんが好きで「当たり前の存在」に。
自分にとってこんなにもドラえもんが大きな存在だったのか、声優が変わる時まで無自覚でした
声優交代があまりの衝撃で、テレビを見ながら号泣。
母を失うってこういう気持ちなんだと思ったのを今でも覚えています
(実際の母は健在)
ただし、大人になってから意味がわかりこのドラえもん群を超える映画が1つあります
それは風の谷のナウシカです
腐海は人間が汚した土を綺麗にしている。そしてカッコいいナウシカ、この二つの要素で、今後これを超えるストーリーには出会えないかもしれないと思ってます
次にドラえもんで
その次はもののけ姫
進撃の巨人、ワンピース(魚人島以前)と続きます
その他には書き出せないけど、
ジブリ全般/タッチ/ワンピース/進撃の巨人/キャプテン翼/ハイキュー/こどものおもちゃ/星の瞳のシルエット(柊あおい全部)/NANA/パラダイスキス/ダイアのAなど
好きな声優
鳥海浩輔(TOVのユーリローウェルが特に)
櫻井孝宏(ダイヤのエースの御幸一也が特に)
沢城みゆき(地声に近いキャラならなんでも)
朴路美(少年声ならなんでも)
この4人は殿堂入り
あとは、低めの声の人気声優は大体好き
しかし、詳しくはない
声優好きなきっかけは、「あ!この声、ドラえもんの何々のキャラだ!」と一人ゲームしてたのがきっかけ
あとは、声フェチで、夫との出会いも声から(笑)
好きな本
村上春樹(特に長編小説)/キノの旅/ハリーポッター/東野圭吾の推理小説/すべてはFになるシリーズ(特に1巻)/疾走
ハリーポッター(中学生)
それまで、学校の強制読書週間に見栄の為に絵本のような薄い本を無理やり読んで数をこなして「できる子」演じていただけの学生の私が、本格的に読書にはまったのがハリーポッター
当時中学1年生、文字通り寝る間を惜しんで読んで、そのまま授業中も読んでいました
キノの旅(高校生)
それから高校生になりキノの旅に出会う
ミニマパッカーのルーツと言っても過言ではなく
後にバックパック旅行に旅立ったことへの影響も大きいです
村上春樹(20歳前後)
村上春樹はノルウェイの森から入りました
当時すでに毎日モヤモヤしてて、外面と自分の殻両方のどっちつかずで
閉じこもり始めていた私には主人公の気持ちや、村上春樹の文章にドはまり。
特にノルウェイの森の主人公が
「空間を折りたたんで、それをまた折りたたんで、しまいには小さな空間にしてしまう」描写が、
まさに私が日ごろやっていることで
それがこうやって文章として表現できる人がいると思っていなかったので
一発でファンになりました。
そして自分も病んでいきました
その後は読書時間の8割は村上春樹です。
明るい話が好きになった現在で一番好きなのは「ハードボイルドワンダーランド」ですね
アフターダークあたりからあまり好きではないなので
昔のものを何度も読んでいます
私の価値観・人生観・死生観について
向上心?何それおいしいの?
常に前向き!
向上心を持って!
目標を定めてそこに一直線!
今を頑張れない人に自由な未来はない!
有意義に過ごさない人生なんて生きているとは言えない!
人付き合いは大事!人脈こそが成功の秘訣!!
( ゚Д゚)?
そうやって頑張れる人はすごいなと素直に思います。
そういう方って、どんどん自分を売り込んで起業したり、
フリーで稼いで自由を手に入れて旅に出ていたりする。
すっごく憧れる。
だけど、私はそうじゃない。
人づきあいは苦手だし、できればひっそり暮らしたい
でもブログを書くことは心のデトックスなので続けたい
そして、私はどちらかと言えば行動力もあるし、意見もずばっといえる。。。。方。。。。?
だから自分にも何かをやり遂げることってできると思ってた。
それで、本当は怠け者でめんどくさがりで、「できない自分」を認められなくて、
「目標に向かって努力できない自分」が嫌で嫌で、
だけど、社会に出てみたら(出てないけど)「やりたくない」ことばかりでした。
というか社会に出たくない
「働きたくないからやらない」という選択肢は当時自分にはなくて、
「やりたくない事でもこなせる自分」がいると思ってた。
でもそんなものどこにもいなくて、
いつでも世間体を気にして、だけど甘えは悪だったし、
にっちもさっちもいかなくなって逃げ場も自分からつぶしていった。
自分がどうなりたいか。
もっと気楽に生きていたい。毎日小さな幸せを見つけて、それが一生続けばそれでいい。
自分ができる範囲で、笑っていられればそれでいい。
アメリカと東南アジア旅行にいってそう思いました。
「死にたい」
この言葉、グーグル検索で一日に25万検索されているらしいです
これ検索じゃなくて呟きですよね、それがこんな回数ってすごい
しかも日本だけです。このブログでは今のところあまり使わないようにしています。
使うと結構表現楽なのですが、書いていると私の脳みそが「私は死にたい」と勘違いするからですw
なので、プロフィールだけに書いておきます。
頑張って生きて?なんて私は言いません。
死ぬのはいつだってできる。死にたくなったらいつでも死ねる。
誰かのために生きなきゃとか、自殺なんて恩知らずだとか、そんなことどうだっていい。
「死んだと思えばなんでもできる」とかクソくらえです。それが出来ないから「死」を考えるんじゃないか。「死んだつもりで逃げ出せばいい」?なにそれ、逃げた罪悪感からどうやって逃げるんですか?
だから、もう追い詰められたら「死」しかない。
だから、「死にたいのに死ねなくて辛い」じゃなくて、嫌になったら死んじゃえばいいんだ。「私はいつでも死ねる」「勝手に死んでいく」そう思うとすごく楽になりました。
私には「頑張り(働くこと)」=「死んだほうがまし」くらい辛いことでした。
ただ一つ注意することは、死ぬなら確実に死ねる方法を探さないといけない
失敗して半身不随とかになったら恐ろしすぎる。自分ひとりじゃ逃げ出すこともできないから。
私を支えている言葉
- 明日出来ることは明日やる
- 頑張らないように努力する
- なるようになる
- ベンチでいびきかくほどリラックス(ケツメンサンバより)
- 「大丈夫大丈夫」と声に出せば脳が「大丈夫」と判断する(≫(関連)自分を変えたい!が絶対叶う本1選)
- 生きてるだけで丸儲け(明石家さんまさん)
- 失ったものばかり数えるな!!お前にまだのこっておるものはなんじゃ!!(漫画ワンピース)
- どの道を選ぶかではなく選んだ道でどう生きるか
- 人生は死ぬまでの暇つぶし
私の人生と楽な生き方を見つけるまでの物語
1、親の笑い声を聞くまで眠れなかった幼少期
普通より少し裕福な家庭の長女として生まれました
子供好きな両親の元には私しかおらず一人っ子
少し変わり者だけど正論で人を丸めこもうとする父と
片付が苦手だけど忍耐力のある良き母の元に
それはそれは恵まれ、愛され産まれました
しかし、気がつけば、私は、
常にビクビクと両親の顔色を伺うように育ちました
片付けの出来ない母は、
事あるごとにそれを引き合いに出され父に怒られ
父は物に当たることもありました
冗談のつもりで母に痛い思いをさせることもありました
母はただただ、「頑張ります」「ごめんなさい」しか言いませんでした
ただ父の怒りの嵐が過ぎ去るのをまつ日々
私が寝てから父が帰ってくると
床に耳をつけている私にも
低い父の声が聞こえてきます
心臓がばくばくいいます
また怒られてるんじゃないかと心配になって
そっと布団を抜け出し、会話が聞こえる距離で座り込んで。
笑い声が聞こえると安心して寝床に戻って寝る
そういう生活を、大学生になるまで続けていました
私が何かを起こすと
父は必ずと言って良いほど
「お前(母)がそうだからだ」といって
母のせいにしました
私は親の顔色をうかがって、
良い子であろうとしました
何かやりたい事、言いたい事があっても
「ダメ」と言われ
そのあと母に何かが振りかかるのが怖くて
口を閉ざしました
しかし、「いいたいことがあるなら言え」
と怒られました
しかしそこで言いたい事を言うと
子供にしてみれば親の言うことは「正解」です
その正解な意見で丸め込まれ
次に母に降りかかることを知っていたので
言うより言わずに怒られたほうがマシ
と学びました
母と一緒に父帰宅戦争の準備に加担しました
父に怒られないようにするためだけに
いろんなことの準備(散らかってるのを急いで隠したり)をするのが当たり前でした
嘘も方便、口裏も合わせました
一番つらかったこと
しかし、辛いのは
私は恵まれているし
大切にされている
という自覚があったこと
そしてもっともっと苦しかったのは
母が父のことを大切にしていた事でした
2、なんでも出来ると思ってた学生時代が終わり何もできない自分に失望する
そうしていい子になろうとした努力の甲斐あって
学生という狭い世界では、
自分はそこそこになんでもできていました
このあとの人生もそこそこに何かになれると思っていました
でも、バリバリやっていた部活動を引退後
初めてやったアルバイトで
「働くってこんなにも大変なんだ」
と思い知りました
のちに、出てくるアメリカに行った友達が
同じアルバイトをして一日でギブアップ無断退職しました
その子は、高校3年間同じアルバイトを続けて
この無断退職したアルバイト後も別のアルバイトを掛け持ちもして
バリバリバイトで稼げた子でした
その子に言われたのは
今でいうパワハラ環境でした
でも私は完璧主義で
頭が固かったから
自分悪かったと思ってしまったし
「働くこと」ってこれだけ辛い事なんだと思い込んでしまいました
それから、求人広告を見るのもダメに。
でも、それがこんなに長く引きずることになるとは
当時は思いもしなかった
そのうち「ちゃんと」働ける
まだ、そう信じていました
でも、高校卒業の時
いざ目の前に将来の選択を迫られると
自分が何になりたくて
何をしたくて
何ができるのか
全くわからなかった
キノみたいに長い期間旅をしたい
それは頭にあった
でも旅の仕方がわからなかった
仕事をしてしまったら
一生休みはないと思っていた
そして、「仕事」をすることを
想像するだけで
動機がした
でも、それはただ甘えているだけ
そう思った
もし旅をするために
大学で休学するつもりでは
学費は出してやらないと言われた
それ以前に、旅をするどころか
自分で生活するお金を稼げる自信もなくなって
大学へ行くにしても
働くにしてももう援助はしないと言われて
「今はまだ働きたくない」
じゃぁ大学に行くのか?
でも、奨学金を返すために
働けるのか?
働くのが怖い
頭が真っ白になった
今では実家が裕福なことは知っているけど
昔からいつも外食に行くと
「うちはお金がないから、食い逃げをするぞ」って冗談を言われ
何かと「お金がない」と聞かされていたから
本気でお金がないんだと思っていた
お金がないと言われていたから
働けもしない自分が生きていることが罪のような気がしていた
大学に親のお金で行くことは
とっても恵まれていることは
今ではわかる
でも、当時は大学まで行かせてもらうことを当たり前と思っていた
でも、フリーターはダメ
学費は出さない
そのほか海外へ行く方法はある
でも私はふらふらと気の向くまま自由に「遊び」たかった
大学に行きながらバイトしてお金を貯めて
なんて甘い考えだった
それがかなうとしても
もうバイトを続けられる自信がなかった
もし何かの方法で
海外にいけたとしても期間限定だから
そのあとどうするつもりなのか?
人生プランを紙に書いて提出しろと言われて
何もかけなかった
働くことも考えられなくて
途方に暮れた
頭でっかちで完璧主義
自意識過剰だったから
どれかを選んで完璧に一生やり遂げないといけないと思っていた
高校生にもなって
こんなありさまだった
とにかく失敗がこわかった
「やってみる」ができなかった
失敗して
「だからいっただろ」
と言われるのが怖かった
この進路選択で間違ったことはできない
失敗は許されない
失敗したら誰も助けてくれない
自分で自分のことを助けられるレベルの話じゃないと思った(金銭的に)
そう追いつめられた
目の前に出された出来事だけやっていけば
「自分はできる子」になれた学生期間が終わる
いままで演じてこれていた
「いい子の自分」
「そんな自分に自信を持っていた自分」
が一気に崩壊した
私は今まで信じていた自分が何一つ信じられなくなって、他人を信じても裏切られるだけだと思って期待してなかったから自分しか信じてなかったので、
もう何もかもを失った気分で
自分が信じていた自分という左足と
耐えて頑張れば報われると信じる気持ちの右足と
両方を失い立つことができなくなりました
結局、進路が決まらないまま
気分も不安定になってきていたけど
なんとかまだ「ふつう」に生活していた
最後の最後になって
まだ空きのある
名前を書けば合格できる大学
にすべり込んだ
すべり込めた理由は
すごく前向きで
行動力のあった子だから
親も先生も若干驚いて
不審に思ったのか
この頃には親もとりあえずお金を出すと言ってくれた
しかし、後はもう
坂道を転がり始めたボールのごとく
止まることなく落ちていくだけだった
たった一日のサボりも許されない
ある日、どうしても布団から出られなくなって
大学を休みました
たった一日だけです
でもその日のお昼には
「心療内科」に連れていかれました
その時私が思ったのは
「ああ、一日サボったくらいでこの騒ぎなんだ
みんなたまにさぼったりしてるのに
私の親は一日の寝坊も許してくれない
許さないどころか
精神病だと疑われるレベルでありえない事なんだ」
と「私はどこにも逃げられない」
そう絶望しました
今思えば、もっと前から周りには異変が伝わっていただけなんだろうけど
それに気が付いたのはこの日から10年後でした
結局大学も2年生で中退という
親に迷惑かけたくない気持ちが
余計に入学金が無駄になるという
大迷惑に変わっただけだった
「完璧にできない自分」にいらだち、悪循環が止まりませんでした。
- 「しなければならない」
- 「すべき」
- 「権利がない」
- 「働かざる者食うべからず」
- 「いい子にならなきゃ」
- 「立派になれないなら生きてる価値ない」
それを信じて育ったので、
いつの間にかどれもできていない自分になり、
生きている価値がないと思いました。
この言葉たちを信じすぎて、
何をやるにもプレシャーを感じ、
逆に何もできなくなってパニックになって、
自分には関係ないと思っていたニート
一番なりたくなかった「親に甘えながらのニート」になっていました。
親に甘えるくらいなら…
という私の行動は不発に終わり、
今まで厳しかった両親が
そこから親身になって支えてくれました。
そこでまた、今まで「親への不満」で保っていたバランスが崩れ
もっと悪循環は起きました。
親への感謝と恨み
その時は親の幸せというのを考えていませんでした。(今もわかっていませんが)
子どもが幸せそうに生きていること。それが一番だと今では思います。都合が良いかもしれないけど。
でも、どうしていいかわからなかった。
とにかく、大学を辞めてんだから
早く親元を離れて
自立しなければと
焦るばかりでしたが
そんなこと、到底無理なほどの精神状態です
しかし、今までさんざん押さえつけてきた親に
助けてもらうことが悔しかったし、
同時にこんな人間に育ってしまって申し訳なかった
一人っ子なので
昔から「甘えている」と言われるのが大嫌いで
親も「甘えさせてる」と見えないようにばかり
気を使っていました
でも、これを機に
親は私の甘えを受け入れてくれました
食事を作ってくれたり家に住まわせてくれることはありがたくて、甘えていました。
でも、どうにかしたかった。
このまま「できない自分」にまとわりつかれて辛いのはいやだった。
でも「ダメな自分」はどうにもならなかった。
「ダメな自分のせい」で朝は起きられないし、ご飯も食べられない、親に感謝もできない、友達には会いたくない、生きている価値のない私を生かすために親のお金は減っていく。
そんなとき、幼馴染がアメリカに私を呼んでくれました。
3、逃げ出した
正直、飛行機落ちないかなと思っていました。
自分から命を投げ出したらみっともない。だけど。。。どこかでぽっきり終わりたかった
アメリカに行くなんて一人で生きてもいけない「ダメな自分」には贅沢で許されない事。
そういった葛藤はありました。
でも、父と母が後押ししてくれた
結局は行ったんです。
4、自分はなんて狭い世界で生きていたんだろうと知ることになった
そしてアメリカで、生まれ故郷日本では絶対に感じられないことを経験しました
自分はなんて狭い視野で生きていたんだろう
完璧にできなくったって自分は生きていていいし、甘えたっていい
生きていていい価値が自分にもあることを知りました。
私はたまたまアメリカでしたが、これは「初海外」という事に意味があったんだと思います
想像したこともないような「価値観」が右を向けば溢れ、左を向けば転がっていました。
>無価値の自分に価値を与えてくれたのはこんなくだらないアメリカでの出来事だった
自分の中の常識が覆った瞬間
アメリカではほとんどが日本の方との出会いでした
アメリカで起業した方、同じ年の20歳ちょいのアメリカで研修している子たち。
そして、アメリカで働いているメキシコ人とアメリカ人のホストマザー達。
特に最初に驚いたのは同じ日本人なのに、考え方が大きくておおらかでポジティブで本当に驚きました。
簡単にいうと、「さすがアメリカ(海外)を選んだ日本人なだけあるな」です。
人と違うこと、人より劣っていること、何一つ気にせずそれを自分の、私の個性として受け入れてくれるところ。
「なんで働いていないことがそんなに悪いことなの?誰のおかげだろうと生きているんだからそれでいいんじゃないの?」
そんな事を当然のように語り、実際にそういう生き方をしている人たちにも合わせてくれました。そしてそれについてアメリカでの子供の働き方の話や現地の友達の話などもしてもらいました。
そして、次に、私が一番コンプレックスに感じていた「働くこと」に関してでいた。
お酒を飲みながら働く
なんと、お酒を飲みながら働いていたんです。(バーとかではなく)法律とかわからないので詳しくは書きませんが。
それまで「完璧」しか考えてなかった私には驚愕の事実です。
もちろん地域や職種にもよりますが、その地域ではそうやって働いていても家族で生きていっているし、地域の社会が回っていました。
何も、働くってバリバリの超エリートキャリアウーマンにならなくたっていいんです。
そりゃアメリカの格差社会の底辺だったかもしれない、それでも日本では考えられない笑顔であふれていました
日本でいう非正規雇用だけど大黒柱のメキシコ人家族は言いました
その日生きられたらそれで幸せだ
人に甘えること
それからレディーファーストにもふれました。
それまで人に何かをやってもらうことは「悪」と育っていたので、人ってもう少し人に甘えてもいいんだって思いました。
誰かに扉を開けてもらったりゆずってもらったら「ごめんなさい!いえいえそんな申し訳ない!どうぞどうぞ!」ってやりあうより、素直に甘えて「ありがとう」とやったほうが譲った側も譲られた側も気持ちがいいという事をおしえてもらいました。
>うまく甘えられないあなたへ、私がレディーファーストで学んだこと
ダメな人として生きればいいや
語りつくせないほどいろいろなことを経験して日本に帰ってきました。
もちろん、まだニートのままです。それなのに、「自分に価値がない」が100%頭を占めていたのが「たとえ価値がなくて生きていていいんだ」に変わっていました。
シンプルな思考
目的は何か、それだけを考える
この時は、「生き抜く事」
「罪悪感で何も出来ない」より、例えば親にお金を借りて、お金を貰ってでも迷惑をかけてでも「未来につながることをしたい」と考えるようになりました。
自分は何ができて何ができないのかわからなかったので、短期派遣型バイトでいろいろやってみました。いやだったらちゃんと連絡してその日にやめてしまおう。迷惑だし社会人として最低でもいい。自分が前に進める可能性はそれしかないと思いました。
農家で住み込みをしたりもしました。そこでも都会と違った生き方があって驚きました。
そのあとは、「首になってもいい」「こんな私を雇った方が悪い」スタンスでフルタイムのアルバイトから探し始めました。
すると、ネガティブだったときはどこも落ちまくっていたのに、さらっと受かりました。
しかもちょっと専門分野だった(未経験可)ので倍率もそこそこでした。
それもそのはず、今までは働かなきゃ、受からなきゃ、でも受かったら怖いとばかり思っていました。
働きたい意思なんかなかったんです。
今までより圧倒的に適当に仕事して、愛想笑いなんかしないで、出来ないことはできないと言って、休日出勤もしない!そうやって働いていても、月日がたてばバイトの中でも昇給と立場も偉くなっていきました。
5、やっぱりダメな自分はダメなんだ(再撃沈)
そうです、プレッシャーが大きくなっていき、リーダーになっていき、ドンドン「自分じゃないとだめ(と思い込んでる)」な仕事が増えていきました。
そこで、私は、以前だったら絶対にできなかったであろう方法を取りました。
しかも何度も。
それは、「当日欠勤」です。連絡だけはちゃんとするようにしました。この連絡が一番嫌なところだけど。。。
社会人として最悪かもしれません
社会人として最悪でも、人として生きていければいい。
もうあんな日々に戻りたくない。私が休んだくらいで世界は勝手に回っていく。
そうして、復活し、また当日欠勤し、というのをだましだまし過ごしました。
しかし、突然、ガラガラと音を立てて再び崩れていきました。
もう電車の中で、1人ポロポロと泣いてしまいました。
何がいやなのかよくわからない。
「今日会社に行きたくない」ではなくて「一生このまま、この生活が続くんだ」と思ったらもう恐怖しかありませんでした。
毎日朝起きて、なんとか一週間過ごして、金曜日から月曜日の心配してどこにも遊びに行けずに、眠れずに。
何度も罪悪感を感じながら当日欠勤したって全然楽にならないという事を感じてしまったんです。
生きるためには働かなければならない、でも働くために生きているの?
なんでみんな、いやいや言いながら働けるの?
私は「いつ」生きているんだろう?
しかもバイトでこれなんて正社員なんて無理だ。
もう無理だ、やっぱり無理なんだ。
もう大丈夫だと思ったのに、やっぱり無理なんだ。
生きるために無職へ
でも、私はもう「どん底」には行きませんでした。
なぜかというと、一度どん底を味わったときの日々を思い出したんです。
「あそこに再び行くなら、なんだってする、人に甘えようが、自分が死んでもいいからその前になんだってする」
そう思って、バックパック旅行を計画しました。
もうきれいごととか社会とかどうでもいい。
またここで踏ん張らなかったら、私は親に世話になりながら親を不幸にして自分も不幸になる
それだったら、親に甘えてると言われたって世話になったって、道楽娘よろしく何でもいいから自分は幸せになろうと思いました。
あとの仕事の事は後で考えよう
私は何が一番したかったか考えました。
「生きるためには仕事をしなければならない」から「今を生きるために仕事を辞めました」
余命宣告されたら何をするか考えました。
まずは仕事を辞めて、そして海外旅行をしたかった。
それもずっといってみたかった長期のバックパック旅行
リュックサック背負って、身一つでどこまでも行ってみたかった。
1人、誰に気を使わず、気の向くまま、自分の好きに生きたかった
疲れたらそこでやめちゃえばいい、だれにも文句は言われないし迷惑もかけない一人旅がしたい
馬鹿にされることがあったって、「しっかりした大人の対応」ができなくったって旅行中はそれでおわりだ
また会うこともないだろう。
人付き合いになんのプレッサーも常識も考える必要はない
何か間違ったって「違う国の人だから」って思ってもらえる
こういう人なんだ、で終わってもう会うこともない
ただ、二つ問題があった。
私には当時付き合っていた恋人がいたこと
もう一つは、英語が赤点しかとったことないくらい嫌いだったこと
言葉の不安はフィリピン留学で旅の練習を兼ねて不安要素を消した
そしてあまり書かなかったけど私の一連のこれをすべてそばで支えてくれていた
いろいろあったけど、折角前を向いた私に喜んでいてくれてもいた
それでも、私はいかずにはいられなかった。
行かない事にはこの先、彼との未来も何もないとしか思えなかった
もう一度どん底になったら、未来も何も次はないと思った。
別れ話も特になく
行くことの決定事項だけ伝えて勝手に出国した
本当に自分勝手だとは思う
これは後悔はしていないけど未だに反省はしている
生きる意味とは生きていること
生きる意味とは生きていることそのもの、大した意味なんかない
東南アジアのバックパック旅行は、アメリカ以上に「生きること」を感じさせられました。
アメリカで、価値観ががらりと変わって、東南アジアではその価値観をもっともっと育て裏付ける言葉や出来事に沢山出会い、実際にこの身体で体験してきました。
あまりにも衝撃的で、いまだにバックパッカーの世界にとらわれています。
東南アジアでは、「社会人」とか「キャリア」とかそんな言葉みじんも感じませんでした。もちろんあるにはあります。
ちゃんと学んで都会に出て稼いで裕福な生活をしてる人にも出会いました。
私を勇気付けた出来事
しかし、私を勇気づけたのは、愛想笑いすら「いらっしゃいませ」すらない雑貨屋のおじちゃん、子どもしか働いていない料理屋や掃除のされていない宿。それでも家族楽しそうに笑ている姿。
自転車だろうとなんだろうと屋根に積みこむトラック(タクシー)
出発時間なんて到着時間なんて関係ないバス
お客さん載せて急いでるのに、途中困ってる道の人の自転車を無理やり積み込んで大幅に遅れるマイクロバス
容赦なく待たされ立たされるお客(私達)
道端で裸足でボロボロの洋服を着た子が、一緒に遊ぼうって寄ってくる様。子供は嫌いだったけど、それはちゃんと子育てしなきゃと思っていたからだったと気が付いたこと。
食べ物がなくたって、お金がなくたって、子供が生まれ育っている事実。
もちろん、いろいろな社会問題はある。
でも、「生きるって生きていること」それだけなんだって。
バスだって「運ぶだけ」それでいいんだって。
快適が何なの?時間どおりが何なの?着きゃいいし運べりゃいい?そうだろ?と言わんばかりの運転手
それだけでいいんだって。
そう改めて感じました。
窮屈な世界
それから日本に帰ってきて、日本にいると東南アジアでの開放感とか得た勇気とかそういうことを忘れてしまう。
日本が悪いとかそういうことを言うほど世界をしらない。でも少なくとも育った国だ、やはり完璧を求められている気がして窮屈を感じてしまう
完璧に計算された営業方法と、「仕事ですから」が口癖の窓口のおねぇさん
綺麗に掃除されたオフィスで無料のお茶がでてくるショールーム
1分の遅延ですら真剣にあやまる駅員さん、文句を言う乗客
24時間営業のスーパーやコンビニ
アルバイトだからって許されないちょっとしたダラケ
私の人生は捨てて楽になりました
このようにして私は、「過去の私の人生」を全て捨てました
そして今の自分の命を拾い上げました
うつ病になって、「良い子」を捨てました
アメリカに行って「自分(親)の常識と価値観」を捨てました
東南アジアに行って「家の持ち物の9割」を捨てました
持ち物の9割を捨ててミニマパッカーになり、
生きる方法は何も
会社員だけじゃないと知った東南アジア
ブログを書いて自分と向き合えるようになって
自分にとっての幸せを見つけられるようになった
バリバリのキャリアウーマンになって
自立して、親に弱みを握られずに済むように
見返したかった私の過去の人生
全ての「理想」を捨てました
親に甘え
夫に甘え
そんな人生も許されるんです
「そんなの私にはできない」というあなたへブログを書いてます
そして、
同じように生きることが窮屈なあなたへ
吉永の人生が変わったように海外旅行になんていけないけど、価値観を変えたい。
そう思うあなたへ向けてこのブログを更新していきます
これを読めば、「出来ない自分を許せる」ようになる、そんな記事を書きたいと思います
そして、「自分を許せるようになった」未来のあなたへ生活の参考になるライフハック(節約生活と考え方)も更新したいと思っています
人生を投げ出す前に、ダメもとで読んでほしい
私のことは信じなくていいから
とにかくダメもとで読んでほしい
今のままだって
この先は真っ暗としか思えないですよね?
だから、同じ真っ暗なら
しぬまでのひまつぶしにどうですか?
何も変わらなければそれでいいし、
変わればラッキーです。
かといって焦ることはないです。
「いつか」はちゃんときます
でも来ることを期待しないほうがいいけど、
それでも、いつかやりたいことをやってみてください。
▼楽に生きたい方が多く訪れるブログ内で一番反響の多い記事はこちら
【ニート女の末路と生き方】消えたい。無能で価値がない自分が未だに生きてる理由
最後に
ここまでこんな長くて自己主張の塊を読んでいただきありがとうございます
僭越ながら生きるのが楽になった方法が本になり、Amazonで販売されております…。
片付け?何それ関係あるの?と思われるかもしれませんが、大いに関係がありました。
そして、生きるのが楽になる方法、だとピンとこないと思いますので、タイトルはこんな感じになってます