許されたい。許される事に権利も理由も説明もいらないと知った出来事【アメリカ価値観シリーズ】【第二章】

自分を許す
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お越しくださいましてありがとうございます。ミニマパッカーの吉永と申します。
今回は、ダメ人間の価値観体験の「第二章・自分の許し方」です。

私は自分の宗教もわからないような人ですが、アメリカでミサに参加して、人々が理由もなく、何も知らない他人を「ただただ励まし、なぐさめる」異様な光景を見るという体験をしてきました。

私を励まし許してくれたのは、そして、私が許してほしかったのは、目に見えない神様じゃなくて、どこかの「お母さん」とか私を知る友人とか、身近な目に見える人間にだったのです。

そして、それを感じて自分を許したかったんです

その時に感じたことを書きたいと思います。この記事を読んで、今が生き辛い方の何かの励みになればと思います。
 

アメリカでミサに参加した時の話

冒頭にも書きましたが私は、宗教について知識がなくこれから失礼なことを書くと思います。ご理解頂ける方のみ読み進めていただきたいと思います。

ミサとは

私も未だに知識はありませんが、ちょっと調べました。

ミサとはキリスト教のなかでもカトリックで行われる礼拝の儀式のことだそうです。(プロテスタントでは使われていない言葉だそうなので注意です)毎週日曜日にひらかれるこのミサは一般の方も宗教も関係なくどなたでも参加することのできる儀式だそうです。

それから、プロテスタントでは牧師様、カトリックでは神父様というらしい。

何処にいてもダメな自分なまま

カリフォルニアについてから、日本と同じように引きこもっていた私。

何もかも新しい環境で、気持ちは日本にいた時とは違い興奮気味でした。ふさぎこんではいなかったけど、特に目的もなく逃げるようにやってきたアメリカ、ホームステイ先に引きこもってあっという間に一週間がたちました。毎日勉強と仕事を頑張ってあわただしく過ごしている友達を見て、やはり劣等感とアクティブに自分が選んだ道を突き進む友達をうらやむ気持ちが出てきたとき、友達に「ミサに行かない?」と誘われました。

友達も特に宗教のことはよくわからないけれど、どなたかに連れられて何度か来たことがあるようです。

私としては、社会勉強として、「せっかく来たんだし何かアメリカらしいところを近所で体験させてあげよう!」という気遣いかなと思い、気を使わせた事にちょっと申しわけなくなって特に興味もなかったけど行ってみることにしました。

するとそこには、驚きの、全く想像していない空間が広がっていました。

これが教会?

アメリカ教会イメージ
※ここより画像は全てイメージです

教会というとゲームに出てくるような、長いイスが2列になって繋がっていて、前方になんか司祭様?がいたりなんか祭殿?があったりする結婚式のような風景。

そこに座って静まり返った重たい空気の中、厳かに何かが取り仕切られ、思い思いに祈ったりしているものかと思っていました。

しかし、着いてみると、小さな市民ホールのようなところでイスも何もなくただ、人が集まっていました。

別世界への興味

ミサ自体には興味はなかった私ですが、集まってきた方たちはどこにでもいるアメリカ人やメキシコ人。ミサに参加するくらいだからきっと熱心な信者なんだと気になってきました。

世間知らずの私。最後の晩餐の絵のような人たちが現れ、見たこともないような催し物が行われるとでも思っていたのでしょうか?いや、本当は何も考えていなかった。

それが、来てみるとなんだろう。普通のTシャツにサンダルのような人達が普通のホールでいったい何をするのか、興味が出てきました。

見よう見まねでお祈り

ごめんなさい、この後の出来事が印象的で実際に何が行われたのか記憶がありません。でもそこまで驚いたことはなく、確か前に立って神父様が何かを諭すように話したり、歌を歌ったり、お祈りをしたと思います。

そして、とある話に差し掛かった時です。

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あなたが何者か知らないけど、大丈夫

祈りイメージ

前の方の1人がポツリと手をあげました。

すると、その人に向かって人々が押し寄せてハグしたり、背中をさすったりし始めました。

いったい何が?体調が悪くなったのかな?

それとも、何か悲しいことがあって”それを知る近所の人たち”が慰めあってるのかな?

そんなことを考えながら呆然と眺めていると、また1人、また1人と、ポツリポツリと手を挙げる人が。

もうその後は、人々が崩れ、支え、波が起き始めたのです。

手を挙げた人は大泣きして泣き崩れていました。あちらこちらから嗚咽とそれを支える人々の静かでも力のあるささやき声で満たされ始めました。

そのころ私は、あまり驚いたり楽しんだりすることがすくなくて感情がよくわからなかったのですが、久しぶりに心の底から驚いてしまって、「あー私も人間だった」と意味不明なことが浮かびました。

この訳もわからず始まった悲しみと怒りの渦の中、ドキドキとたたずんでいると、

なぜか、自然と涙が流れてきました。

盆踊りの太鼓の音が心臓を叩くように、教会の空気が振動して、全くの赤の他人の感情の渦が心を揺さぶってきました。

弱音を吐くことが悪な世界

その時まで私は、なるべく泣かないように、なるべく強くあることが「えらい」と思っていました。

1人で外で泣いてしまうことはあっても隣に友達いて、この瞬間に自分が泣くなんて思ってもみませんでした。でも膜を貼って何も感じないように鈍感であろうとしていた心臓の膜が破れたように隙間ができて、そこからこの場の熱がつっついてきてくすぐったくてそのままツーと流れてしまいました。

悲しみの理由はいらない

ツーっと流れた涙をぬぐえずにいると、近くのおばさんが私を抱きしめて、背中をさすり、頭を撫で、ぼそりぼそりと私を慰めるような言葉をかけてくれました。

英語はわからなかったけど、親が子供にするような「ヨシヨシ」と同じ暖かさだった。そんなもの記憶にないけど昔にはきっと体験していたんだなという感じ。

その時は、私は、まだ頭がついて行かず、空気のなすまま、なされるまま流されるまま、何も考えずにただただ、遠い記憶のような暖かさの中、出てくるだけ涙を流しました。

そして自分がさっきの人たちと同じように抱きしめられた時、気が付きました。

この日私が救われた理由

ああ、これはこういう時間なんだ

こうやって人が人に助けを求めて

知らないたくさんの人が理由も聞かずに

なぐさめてくれる

励まして許してくれる

そんな時間なんだ

人が人を慰めるのに理由なんていらないんだ

人が人に助けてもらうのに理由を説明する必要なんかないんだ

涙は「安心の証拠」

自分を許す

不思議な事に、日本ではこんなことがあったら罪悪感と悔しさでいっぱいになりそうですが、ここはアメリカ、今の私を知るものはいないし、この友達なら、どんな私でも、”私への評価”は変えないだろうと思ったのです。

私は、自分の評価を気にしていたんです

特に親から始まり近しい人や友人、恋人の評価を

だからこのアメリカで、

なんの評価も気にせず、心打ち解けられない自分の親とは別の、全く知らないどこかの「お母さん」そういう人に、無償の愛で包んでもらうのは、泣けない人が涙を流すには充分な安心感と解放感なんです

言い訳なんていらない、罪の意識もいらないんです

自分が仕事にもつけず、ただ飯ぐらいの大バカ野郎でも

超エリートで有り金すべて募金した世間の常識から見たら立派な人間だろうと

そんなこと関係なくて

そこでは、ただ「助けを欲しい人が」手を挙げる

手を挙げた人が、「慰められる価値のない人」なんて誰にもわからないんです

許してもらうのに理由なんていらなかった(まとめ)

あなたが「なぜ」つらいのか、そんなことあなたが知る必要も、誰かに説明する必要もないんです。

あなたが今「辛い」なら、それだけで「誰かに助けてもらう」権利はあるんです

だから、本当は、

「誰か」なんていなくていいんです「自分で」許してあげてください

私が、どこの誰だか知らない人に、許してもらえたんです

そして自分で自分を許してもいいことを知りました

こんな私が許されても誰も私を責めたりしません

「お前のこと許したけど、お前そんなダメ人間だったのか!甘えるな!」なんて言われません

自分では自分を許せない理由があるから、とっても難しい、

けど、誰かに許されなくても自分で自分を許せるようになってください

それがこの記事で伝えたい事でした

▼次の記事

「第三章・何もできない自分にできること」

知らない人に助けてもらった。知らない人に泣いて良いよって言ってもらえた

だけどもっと驚いたのは、甘えの最高潮みたいな出来事

自分にはできないことがある、一人で背負うことはかっこ良いことなんかじゃない

罪悪感なんて捨てて、100%の感謝を伝えることが大切と知った出来事

甘えは悪だと思っていた私がそれは間違っていると突きつけられた話【アメリカ旅行記第3章】

コメント

  1. イオ より:

    はじめまして。
    突然のコメントを失礼します。

    「ゆるされたい」で検索して、こちらの記事にたどり着きました。

    ここ数ヵ月、自分の内面と向き合っていて、
    「とにかくゆるされたい」と感じているんだな~と度々思い至り、つい検索してしまいました。
    して、よかったです。

    「とにかくゆるされたい」は、
    「ちっとも許される存在ではない」と思っているということで、
    その理由は言葉にできるような気もするし、ぜんぜんどこにもないような気もするし……

    ゆるされたいと感じていることまではたどり着いたけれど、そこからどこにも行けないような、そんなところにいました。
    それで、ふらふらと検索してみたんだと思います。外にこたえはないだろうと思いつつ……

    理由はいらないんだ、説明もいらないんだ
    このことばが、私を掬い上げてくれました。
    そうなんだ、と、すんなり思えました。

    そう吉永さんが気づいたことを書いて下さって、ありがとうございます。
    ホッとしたし、進んでいく元気が出ました。

    子供を生むのは親のエゴの記事についても。
    おなじようなことを考えていて、だけど「ゆるされない」意見だな、と理性? が私を責めるネタになっていました。

    私自身は子供の立場しか経験がないのですが、それゆえ、子供は子供の感じるようにしか感じられないと、母親になった人が言ってくれたことはとても救いでした。

    レディーファーストの記事も、上2つを踏まえて、できることはあるよという具体的なところが励みになる内容でした!

    通りすがりで、一方的に感銘を受けて、長々とコメントをさせて頂いてしまいました。
    ありがとうございます!

    • ビーチサンダル吉永 吉永けい より:

      イオ様
      コメントありがとうございます
      こういった記事にコメントを頂けて感動してじんわりしてしまいました。
      ついこの前までコメントを閉じていたのですが開いてみてよかったです。

      「誰かの励みになれば」なんて書いていますが、こんな記事検索されるようなものでもないし誰の目にも留まらないだろうけど吐き出したいと思って書いていました。

      こうやって1人にでも伝わることがあって本当にブログに書いて良かったなと思います!
      ありがとうございました!

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